私は、いわゆる負け組サラリーマンなのかもしれない。
会社での役職は低く、頑張っても報われているとは感じられない。出世コースからは外れ、周囲から雑に扱われていると感じることもある。
諦めるにはまだ若い。しかし、これから起死回生を狙うには、少し歳を取りすぎた気もする。
そんな40代の私が、最近、妙に心を動かされるものがある。
漢文だ。
中学・高校時代には、ほとんど何も感じなかった漢文を読み返し、涙が出そうになることさえある。
あの頃の私にとって漢文とは、レ点や返り点を覚え、書き下し文に直して試験の点数を取るための科目だった。
古文よりも規則が分かりやすく、点数を取りやすい。せいぜい、その程度の認識だったと思う。
しかし、社会に出て、会社という組織で長く働いてきた今、漢文はまったく違ったものに見えてくる。
今回は、出世競争から取り残されたと感じる40代会社員の私が、今になって心を惹かれる漢文や漢詩について書いてみたい。
なぜ40代になると漢文が心に響くのか
考えてみれば、中国の古典には、役人や知識人など、組織や権力と関わりながら生きた人々の言葉が数多く残されている。
彼らもまた、主君に認められたいと思い、人間関係に悩み、時には失脚し、思うようにならない人生に苦しんだ。
もちろん、古代中国の官僚と現代日本のサラリーマンでは、置かれた環境はまったく異なる。
それでも、「人から認められたい」「努力が報われない」「人が離れていくのが悲しい」という気持ちは、時代が変わってもそれほど違わないのかもしれない。
10代の頃には理解できなかった言葉が、40代になって突然、胸に刺さる。
そんな経験をするようになった。
40代会社員の心に沁みる漢文・漢詩
1.人から認められなくても恨まない|孔子『論語』
学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。
朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。
出典:『論語』学而第一
学んだことを繰り返し身につけるのは喜ばしい。遠くから志を同じくする友人が訪ねてくるのも楽しい。
そして、人が自分を理解し、認めてくれなくても腹を立てない。それこそ立派な人物ではないか。
そんな意味の言葉だ。
なんといい文章なのだろう。
『論語』と聞くと、上下関係や礼儀を説く、どこか堅苦しい古典というイメージがあった。
しかし、この一節は違う。
学ぶ喜び、友と語り合う楽しみ、そして他人の評価に振り回されない生き方。
まさしく、人生を重ねた人間の楽しみや心の持ち方を表しているように感じる。
「朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや」
この一節は、学生時代にも何となく理解できた。
しかし40代になり、気軽に会える友人が少なくなってくると、以前よりもずっと心に沁みる。
そして、何よりも今の私に響くのが、
「人知らずして慍みず、亦た君子ならずや」
である。
会社で評価されない。努力が報われない。自分よりも出世していく人を見ると、悔しくなる。
時には会社を恨み、周囲を恨み、何もできない自分自身を恨む。
そんな私には、とても到達できそうにない境地だ。
それでも、二千年以上も前から、人間は他人の評価を気にし、認められないことに苦しんできたのだろうと想像する。
私自身が君子になれるとは思わない。
しかし、この言葉を思い出すだけで、少し気持ちが落ち着くことがある。
会社で評価されないことへの焦りや嫉妬については、以前の記事でも書いている。今も完全に割り切れたわけではない。
関連記事:【体験談】出世コースから外れたと感じたとき、40代会社員が考えたこと
2.人生には別れが多い|于武陵『勧酒』
君に勧む 金屈卮(きんくつし)
満酌(まんしゃく)辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生別離足る
出典:于武陵(うぶりょう)『勧酒』
君にこの金の杯を勧めよう。
なみなみと注いだ酒を遠慮せずに飲んでほしい。
花が咲けば風雨にさらされることも多い。人生にもまた、別れが多いのだから。
そんな意味の漢詩である。
この詩は、井伏鱒二の訳によっても有名になった。
特に「さよならだけが人生だ」という言葉は、何とも切ない。
若い頃には、別れといえば卒業式や恋愛を思い浮かべた。
しかし、40代のサラリーマンにとって、別れはもっと日常的なものになっている。
人事異動、転勤、退職。
昨日まで当たり前のように一緒に働いていた人が、ある日を境に別の場所へ行ってしまう。
会社を辞めていく人もいる。
かつて親しくしていた人とも、次第に連絡を取らなくなる。
仕事の忙しさに追われるうちに、何年も会っていない友人が増えていく。
だからこそ、今、一緒に酒を飲める時間が貴重なのだと思う。
人生には別れが多い。
当たり前のことなのに、歳を重ねるほど、その当たり前が重く感じられる。
3.地位を失えば人も離れる|『史記』孟嘗君列伝
生者の必ず死有るは、物の必至なり。
富貴なれば士多く、貧賤なれば友寡(すくな)し。
事の固然(こぜん)なり。
出典:『史記』孟嘗君列伝
人がいつか必ず死ぬように、世の中には避けられない道理がある。
裕福で地位の高い人には多くの人が集まり、貧しく地位を失った人からは人が離れていく。
それも世の中の自然な成り行きなのだ。
この言葉には、興味深い逸話がある。
中国の戦国時代、多くの食客を抱えていた孟嘗君(もうしょうくん)は、一度その地位を失った。
すると、それまで周囲に集まっていた人々が次々と離れていった。
やがて地位を回復した孟嘗君は、自分を見捨てた人々を許せないと憤る。
そんな孟嘗君に対して、食客の馮驩(ふうかん)が諭したのが、この言葉だった。
さらに馮驩は、市場に集まる人々の姿にたとえて説明する。
朝の市場には、肩を寄せ合うほど大勢の人々が押し寄せる。
しかし、夕方になれば、誰も見向きもしなくなる。
それは人々が朝を好み、夕方を嫌っているからではない。
そこに自分の求めるものがあるかどうか。それだけの話なのだ。
何とも身も蓋もない話である。
しかし、私はこの逸話が好きだ。
会社という組織でも、役職や権限が変わるだけで、周囲の人の態度が変わることがある。
もちろん、すべての人間関係が損得で動いているとは思いたくない。
それでも、地位によって人の集まり方が変わるのは、今も昔も変わらないのかもしれない。
しかも、この悔しさは、あの孟嘗君ですら味わったのである。
だったら、私のような一介のサラリーマンが同じような思いをすることも、不思議ではないのだろう。
腹は立つ。悔しくもある。
しかし、そういうものなのだと思えば、少しだけ心が軽くなる。
4.努力だけではどうにもならない|項羽『垓下の歌』
力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う
時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず
騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき
虞(ぐ)や虞や 若(なんじ)を奈何せん
出典:『史記』項羽本紀
山をも引き抜くほどの力があり、天下を覆うほどの気概がある。
しかし、時運に恵まれず、愛馬の騅も進もうとしない。
どうすればよいのか。愛する虞をどうすればよいのか。
漢の劉邦に追い詰められた項羽が、最後の局面で歌ったと伝えられる「垓下の歌」である。
「虞や虞や、若を奈何せん」
この響きは、学生時代から妙に記憶に残っている。
当時は、項羽という英雄の悲劇として読んでいた。
しかし今は、少し違った印象を受ける。
どれほど力があっても、努力しても、時運に恵まれなければどうにもならないことがある。
そんな人生の不条理を感じるのだ。
もちろん、項羽の敗北と、一会社員の出世の悩みを同じものとして語るつもりはない。
それでも、頑張れば必ず報われるとは限らない。
自分ではどうにもできない流れがある。
そういう現実を受け入れざるを得ないとき、この歌の悲しさが以前よりもよく分かる気がする。
5.年齢を重ねた人間の悲しみ|杜甫『春望』
国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月に連なり
家書(かしょ)万金に抵(あた)る
白頭(はくとう)掻けば更に短く
渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
出典:杜甫『春望』
最後は、唐の詩人・杜甫の「春望」。
国は戦乱によって荒れ果てたが、山や河は変わらずそこにある。
家族と離れ、時代の悲しみに暮れる。家族からの手紙は何よりも貴重で、心労のためか白髪も薄くなっていく。
そんな悲しみを詠んだ詩である。
学生時代、この詩を読んだときには、戦乱に苦しむ人の気持ちを想像することしかできなかった。
もちろん、平和な時代に暮らす私の日々の悩みと、戦乱の中で家族を案じる杜甫の苦しみは、比較できるものではない。
しかし、歳を重ねるにつれ、家族と離れることの悲しさや、平穏な日常のありがたさを、以前よりも強く感じるようになった。
「家書万金に抵る」
家族からの手紙には、万金にも代えがたい価値がある。
この一節も、家族を持ち、生活を守る立場になった今だからこそ、心に響くのかもしれない。
漢文は、40代になって初めて理解できるものかもしれない
学生時代の私は、漢文を試験のために勉強していた。
当時は、これらの言葉の本当の意味など、ほとんど理解していなかったのだと思う。
しかし今、会社で理不尽な思いをしたとき、思うように評価されないとき、友人との別れを感じたとき、ふと昔習った漢文を思い出す。
考えてみれば、不思議なことだ。
中学・高校時代に覚えた言葉が、何十年も経ってから、自分を慰めてくれる。
時々、古文や漢文は学校で学ぶ必要があるのか、という議論を目にする。
もちろん、日常生活で漢文の返り点を使う機会はほとんどないだろう。
それでも、若い頃には理解できなくても、歳を重ねて初めて意味が分かる知識がある。
そう考えると、10代のうちに古典に触れておくことには、十分な意味があるのではないだろうか。
すぐに役立つ知識や、即効性のあるスキルばかりが求められる現代社会。
しかし、何十年も経ってから心に届く言葉があってもいい。
そして、今の私が好む漢文も、60代、70代になれば、また違った意味を持つのかもしれない。
その頃には、今とは別の言葉に心を惹かれるようになっているのだろう。
出世コースを外れた40代のサラリーマン。
会社への不満も、悔しさも、そう簡単には消えない。
それでも、二千年以上も前の人間が残した言葉を読んで、少しだけ心が軽くなることがある。
若い頃には何も感じなかった漢文が、今になって心に沁みる。
それもまた、歳を重ねることの一つの楽しみなのかもしれない。
参考資料・原典
※漢文の書き下し文には、資料によって表記や読み方に違いがある場合があります。

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