戦争経験者どころか、戦争経験者から戦争の話を直接聞いたことのない世代が今後、社会の太宗を占めることを踏まえ、父方の祖父から聞いた南方戦線の話を記載します。(かめ)
戦争経験者と直接話したことのない世代が増えている
1920年生まれの父方の祖父は4年前に逝去。私(かめ)の祖父母は、父方・母方ともに亡くなってしまいました。社会人になり、東京に出てきてからは、祖父母と会う機会はわずか。
子供の頃は色々話をしたりしましたが、戦争の話をしてくれたのは、父方の祖父(出征)と母方の祖母(戦争時代は女学生)が主だった気がします。
戦後、76年がたち、戦争直後に生まれた方でも76歳。戦争当時の記憶がある世代は80代以上で、当時出征していた世代は90歳後半となります。
戦争経験者から直接戦争の話を聞いた事のない世代(例えば私の子供たち)がこれからどんどん増えていく事も踏まえ、父方の祖父から聞いた話をまとめておこうと思います。
父方の祖父の出征経緯
詳しくは覚えていないのですが、学徒出陣関係での出陣(注)だったと思います。当時、父方の祖父は、大学生であり、経済学を勉強していたようです。父の実家の倉庫を見ると昭和ゼロ年代発行の旧字体の古い経済関係の書類が多くありました。
注:年齢的に学生時代に出征したというよりも、大学生で徴兵猶予されていたのが、大学卒業後、働く(会社への就職等)前に徴兵されたのだと思います。
今から考えると、その当時、大学生って父方の祖父は相当高学歴だったことに改めて気づかされました。
当時、エリートだった大学生という事もあり、将官での配属となり、南方の島に派遣された時は陸軍の少尉での派遣であり、小部隊(調べると少尉は小隊長のようです)を率いての出征との事でした。
南方の島の守備隊として戦線へ
若い少尉として小隊長として南方の島へ。島の名前や部隊名等は教えてくれたのかもしれませんが、今では不明です。ただし、南方の島という事は覚えていたので、おそらく寺内寿一率いる総軍の南方軍の隷下の師団の一小隊だと思います。
若い20代前半での赴任であり、部下には戦歴豊富な年上の軍曹等もあり、将官の中では一番下っ端の少尉であり、上からも下からも挟まれる立場でとてもやりづらかったと思いますが、あまりそのような話は聞きませんでした。
南方の島での生活
①隣の島かどこかの司令部での作戦会議に出席。
一番下っ端なので、会議の末席に座り、ほぼ発言等は認められなかったようです。その会議の中で決まった事を実行するのは、実行部隊(小隊長)かつ末席の私の祖父なので、会議が終わるとすぐに退席し、小隊に戻り、実行等をしていたようです。
②小隊では小さな猿を飼育
小隊の兵士が見つけてきた現地の子ザルを飼育していたそうです。食糧事情等もおそらく厳しい状況ではあったと思いますが、そのような話はあまり聞かず。その子ザルはとても頭がよく、あれを取ってきてというと取ってきてくれたとの事、サルが可愛かったという話は何度も聞きました。
③突撃方法
当然、戦争なので、戦闘行為も発生します。隣の島かどこかへの応援・支援に行った際に、米軍の戦車等に突撃する事もあったとの事。突撃の場合は、小隊の司令官が先頭に立って、日本刀をかざして、突撃といい突撃をするようです。
先頭に刀をかざして真っ先に敵陣に突っ込む小隊長は、すぐに狙われて、戦死するのですが、私の祖父は、先頭で突撃といって駆け出して、すぐに地面に倒れたので、戦死することはなかったそうです。隣の小隊長は、ずっと先頭を走り続けて、戦死したとの事。
私の祖父は当時のルールどおり、先頭を走り続けるしかないと思い、「俺も戦死か」と憂鬱になっていたようです。突撃前に、年上の部下である軍曹に、「突撃といって刀を抜いて先頭を走って、すぐに撃たれたような感じで絶対に地面に伏せる」ように言われたとの事。
その軍曹はおそらく私の祖父よりも年上なので、もう亡くなっていると思いますが、その軍曹の一言がなければ、私の祖父は戦死し、私の父、私もこの世に生まれていなかったと思うと、その軍曹には本当に感謝しかありません。
④海軍との関係
その島の守備等は基本的には、私の祖父が属する陸軍が主体であり、海軍は一部の士官しか配置していなかったようです。海軍の士官(中尉か大尉)が、米軍の無線傍受などの関係で駐屯しており、私の祖父はその海軍士官(海軍さんと言っていました)と仲がよかったようです。
海軍士官も大学を出てから、海軍に入ったようで、大学卒業直後の私の祖父とは気が合ったのだと思います。私の祖父は当時に大学を卒業していたので、英語はある程度できており、米軍の無線傍受している海軍士官から相談や米軍の無線を一緒に聞かせてくれたりもしたようです。
とうとう米軍が祖父の部隊のある島に上陸するとの情報が・・・・
そのような中、とうとう米軍が祖父のいる島に上陸するとの情報が入ってきたとの事。米軍による飛び石作戦として、祖父の部隊の島が狙われるとの事。
とびいし‐さくせん【飛(び)石作戦】
目的地に直接向かうのではなく、その途中にある複数の地点を経由しながら目的地に到達すること。特に、第二次大戦で米軍が中部太平洋の島嶼を攻略しながら日本本土に迫った作戦をいう。
デジタル大辞泉
流石に、当時の戦力は違いすぎて、祖父も海軍士官ももう終わりだなといった感じになったようです。
実際は、祖父の島の隣の島が狙われ、凄まじい艦砲射撃や航空機による空爆が繰り返されたのち、米軍が上陸している様子が、祖父の島からもはっきり見え、当然その島に駐屯していた日本軍は全滅(玉砕)したのだろうと祖父は言っていました。
そして終戦へ
海軍士官と米軍の無線を傍受しており、米軍の暗号化されていないラジオ等も聞いており、以下の事は既にわかっていたようです。
- 日本へポツダム宣言が出された事
- 広島・長崎に新型爆弾(原子爆弾)が投下されたこと
そのため、日本の敗戦を聞いた時も、寝耳に水といった事はなかったそうです。終戦後の話はあまり話してはくれませんでしたが、米軍の捕虜となり、日本刀は取り上げられたこと、英語が話せたので通訳として働いていた事、その後、日本に戻り、私の祖母と結婚し、会社に勤め、私の父が産まれました。
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