毎週日曜の夜、JTC(伝統的大企業)の「万年係長」の私にとって、大河ドラマは日曜日の夜に明日におびえながら見る最後の娯楽となります。
しかし、正直なところ、近年の大河ドラマから、私は長く遠ざかっていました。ネットで揶揄される「ジャニーズ大河」の軽薄さ、現代のポリコレ(政治的正しさ)を無理やり戦国に持ち込む「男女平等大河」の違和感……。かつて『葵 徳川三代』が持っていた、あの重厚な演技と歴史の重みはどこへ消えたのかと思う日もありました。
そんな私が、なぜ2026年、三谷幸喜氏の『真田丸』以来の熱量で『豊臣兄弟!』に釘付けになっているのか。そこには、組織の端っこで「誤差の範囲」として生きる40代サラリーマンだからこそ見える、残酷なまでの共感があったのです。
「綺麗事」の裏側に潜む、JTC的組織論のリアル
近年の大河に対する最大の批判は、「現代の価値観で過去を裁く」点にありました。戦国武将が現代のポリコレ推進部の社員のようなリベラルな発言をする姿に、私はずっと首を傾げてきました。
今作『豊臣兄弟!』も、確かに言葉遣いは現代風です。身分の低い秀吉が信長や家康にタメ口に近い感覚で話しかける描写にも違和感は残ります。
しかし、その「違和感」を補って余りあるのが、「組織ドラマ」としての圧倒的な手触り感です。 身分の固定された時代に、愛嬌と機転だけで「中途採用(蜂須賀小六や竹中半兵衛)」を繰り返し、最強のプロジェクトチームを作り上げる。この「努力・友情・勝利」の少年ジャンプ的セオリーは、閉塞感漂うJTCで働く私たちにとって、かつての『半沢直樹』を見た時のような、カタルシスを与えてくれるのです。
本作では、江戸時代に成立した秀吉像の基礎『絵本太閤記』での秀吉の功績や機転の大半が、実は「弟・秀長の発案」だったという設定になっています。『絵本太閤記』自体が没後150年以上経ってからの創作物であることを逆手に取り、「有能すぎるNo.2」という形にしてるのはいいなと思いました。
【キャスティングの奇跡】白石聖が証明した「代役」という名の本物
本作の冒頭の最大の見どころの一つは、永野芽衣の不祥事で急遽抜擢された白石聖氏の演技。
彼女の凛とした佇まいは、近年の「媚びを売る女性像」への批判に対する、一つの明確な回答のように思えます。場に完璧にマッチし、泥臭い兄弟の物語に「品格」という名のスパイスを添えた彼女の姿は、まさに怪我の功名。
また、コミカルさと底知れぬ恐ろしさを同居させた徳川家康の造形も素晴らしい。過去の『どうする家康』への批判を逆手に取ったかのような「食えないライバル」としての家康こそ、見たかった家康の姿です。
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「爆弾弾正」と「藤戸石」~二人の敗者が問いかける「本物の価値」~
先週までの大河ドラマで万年係長として心を揺さぶられた話は以下の2名の武将の描写です。
本作で私が最も魂を揺さぶられたのは、対照的な最期を遂げた二人の武将の描写でした。
組織を爆縮させる「爆弾弾正」松永久秀
竹中直人氏演じる松永久秀。名器「平蜘蛛」とともに爆死を遂げる稀代の梟雄は、ネットでは「ばくだんじょう(爆弾 弾正)」なんてジョーク交じりに呼ばれていますが、本作ではその死には哲学がありました。
「平蜘蛛が偽物だったかどうかはわからない。本物とは何か、偽物でもいずれは本物になる」。
これは、今や、社内報で同級生の出世を眺めるしかない私のような「何者にもなれなかった男」に突き刺さります。組織の歯車として「偽物」のように扱われる日々。自ら爆発してでも「己の価値」を定義し続ける姿勢は、負け犬サラリーマンの私には眩しすぎる姿でした。
権威の残像に切りかかる、足利義昭の悲哀
一方、久秀が能動的な散り際を見せたのに対し、「受動的な敗者」として描かれたのが足利義昭です。
信長に敗れ、毛利の庇護を求めて西国へ逃れる義昭。かつて室町幕府の象徴として愛で、自らの権威の拠り所とした「藤戸石」に切りかかるシーンは、なんともいえない姿でした。
「本物(将軍)」になろうとして、結局「本物」として認められなかった男の、隠しきれない悲哀。
変容する組織の現実についていけない私の姿そのものでした。
まとめ
大河ドラマは、結末がわかっている「倒叙ミステリー」であり、ある意味で『古畑任三郎』のようなものです。豊臣家の栄華も、最後には虚しく散ることも皆が知っていることです。
だからこそ、今画面の中で輝く兄弟が、より切なく、尊く響く。この「最後はすべて虚しくなる」。
天下人も、万年係長も、100年後の歴史から見ればすべては「誤差」に過ぎないのかもしれません。

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