【鎌倉】鎌倉時代の歴代将軍を調べてみた

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概要

 徳川15代将軍、足利15代将軍に比べ圧倒的に知名度がない鎌倉時代の将軍について調べてみた。

 歴史オタクにもあまり見向きもされない鎌倉の摂家・皇族将軍達。

調べてみました。

 

きっかけ

 私は比較的歴史が好きですが、鎌倉時代の将軍は初代頼朝、二代頼家、三代実朝以降は、摂家将軍・皇族将軍であり、名前も興味もありませんでした。

 徳川・室町の将軍も全員を知っているわけではないですが、どこかで名前は一度くらいは見たことがある(特に徳川15代)気がしますが、鎌倉は全く見たことがないので調べてみました。

かめ(夫)
かめ(夫)

 鎌倉将軍って9代なんや。

徳川・足利は15代やから以外と代が少ないんだなぁ。

 

徳川・室町に比べ圧倒的に知名度がない鎌倉将軍

 江戸時代の徳川家の15代将軍は、初代家康、三代家光、八代吉宗、15代慶喜と大河ドラマの主人公クラスが多い。

 二代秀忠、五代綱吉も有名だし、それ以外の将軍もある程度は名前が知られている。

 室町時代の足利15代将軍も、初代尊氏、三代義満、八代義政は教科書に載ってくるレベル。十五代義昭は、もはや信長モノのレギュラーメンバー。その他もクジ引き将軍6代義教も有名。

 それに比べ・・・鎌倉将軍たちは・・。

初代頼朝、二代頼家、三代実朝以降の4代目以降の鎌倉将軍達

第四代 藤原頼経

(1)概要

 源頼朝の次男の源実朝が甥の公暁に暗殺され、源頼朝の直系が絶えたため、鎌倉幕府から迎えられた4代目将軍。 

 鎌倉幕府としては本当は皇族を将軍として希望していたらしいが、朝廷に拒否され、源頼朝の母の妹の血筋の藤原頼経が将軍として迎え入れられることに。 

(2)在任期間と主な出来事 

 1219年に2歳で鎌倉に赴任し、承久の乱を挟んで、1226年に正式に征夷大将軍になり、1244年まで将軍に在位。 

 将軍就任前ではあるが、朝廷と幕府の力関係がはっきりした承久の乱が勃発しています。 

(3)当時の執権等  
 源頼朝の妻の北条政子が尼将軍として実質的な権力を握っていた。その後も北条政子の弟の北条義時が政務を差配。
 

 第二代執権の北条義時の長男である第三代執権の北条泰時の代になっても当然、飾り物の将軍のまま。なお、この第三代執権の北条泰時が有名な御成敗式目を制定しています。 

(4)将軍解任・追放 

 第三代執権の北条泰時の後を継いだ泰時の孫にあたる第四代執権の北条経時により1244年に将軍職を解任され、1246年には、第五代執権の北条時頼により京都に追放されています。

 北条氏内の反執権(北条義時の次男や北条氏の得宗家の次に力のあった名越流北条氏)や、北条氏そのものに反感を抱く御家人の反北条氏、反得宗家の錦の御旗になりつつあったため、追放された。

 また藤原頼経の父や外祖父が関東申次という朝廷と鎌倉幕府の橋渡しをする役職として権力を振るい始めたのも反感をかった要因の一つ。

(5)その他 

 次に説明する五代将軍で藤原頼経の息子である頼嗣ともに、完全なお飾り将軍とのイメージがありましたが、意外と反得宗家と接触を持ったり、将軍解任されてもしばらくは鎌倉に留まり、権力(権威)を保持していたりと、思っていたよりは政治力を使っていたのが意外。

第五代 藤原頼嗣

1 わずか6歳での将軍就任 

 1244年に父親の藤原頼経にからわずか6歳で征夷大将軍を譲られ、鎌倉幕府の第五代将軍に。 

 父親の藤原頼経が北条氏の有力氏族である名越北条氏と組んで、第五代執権北条時頼に反乱を起こそうとした結果、京都へ追放された以降も将軍にとどまり続けた。 

2 14歳での将軍解任 

 その後、1251年に、幕府は、元々、希望していた皇族の将軍(第四代 藤原頼経は、後鳥羽上皇が皇族を将軍に就任させるのを断った結果、第四代将軍になった)を迎え入れるために将軍職を解任され、京都へ追放 

3 18歳で死去 

 1256年に第四代将軍で父の藤原頼経がなくなり、その後を追うように同年に藤原頼嗣も死去。 

4 まとめ 

 父であった四代将軍の藤原頼経は、北条氏内の有力氏族である名越北条家と組んで、執権に反抗してみたり、征夷大将軍という地位も含め、朝廷内での九条家の力を強化したりとそれなりの政治活動を行っていた。

 第五代の藤原頼嗣は若さもあって、あまり活動はしていないようです。 

 また第五代執権の北条時頼の時代までは、幕府内での北条氏の地位は確固たるものでもなく、さらに北条氏内での得宗家の地位も確固たるものではなかったため、北条氏に反抗的な御家人や北条氏内で得宗家に反抗的な名越北条氏等にとって将軍という地位は、反得喪家・反北条氏という錦の御旗という魅力はある程度ありました。 

 ただし、元寇対応で有名な北条時宗の父である第五代執権の北条時頼の代以降は、得宗家が幕府内で確固たる地位を確立したため、相対的に将軍の地位(操り人形としての魅力)は落ちていき、これ以降の将軍はほとんど政治的な業績はないようです。 

第六代 宗尊親王

 皇族将軍として教科書に名前は掲載される鎌倉将軍。

1 宗尊親王の朝廷での立ち位置は? 
 後嵯峨天皇の長男として誕生。ただし、母親の身分が低いため、天皇の跡取りとはなれず、跡取りは異母弟の後深草天皇(久仁天皇)となることが既定路線だった。
 
 ただし、後嵯峨天皇は、宗尊親王の事を可愛がっており、荘園等の面で相当融通を付けていた。そのようななか、幕府から次期将軍にという話があり、双方都合がよく(天皇家側としては、可愛がっていたとはいえ次期天皇の異母兄を幕府の将軍という形で、遠くにやれる、北条家側としては皇族将軍という形で箔がつく等)将軍に就任。

2 将軍就任後~
 摂家将軍時代とは異なり、完全に鎌倉幕府は北条家の手中に入っており、北条家に対抗するような有力御家人もおらず、完全な傀儡将軍。
  
 和歌などを詠んで日々を過ごしており、その結果、鎌倉での歌壇は盛隆を極める。

 20代半ばに、謀反の疑いをかけられ、時の執権の北条政村、連署の時宗から京都に追放される。

 こんなところに北条時宗の名前が出てくるとは。元寇の10年弱程度前の事件。

3 その他
 宗尊親王を父の後嵯峨天皇は可愛がっていたが、異母弟の後深草天皇が天皇になった話は上段でしましたが、後嵯峨天皇は、後深草天皇の弟の亀山天皇を可愛がり、後深草天皇の後は、その息子ではなく、弟の亀山天皇が後を継ぐことになりました。

 ここまでならばまぁよくある話ですが、この後、後深草天皇の子孫は持明院統として、亀山天皇の子孫は大覚寺統(有名な後醍醐天皇はこちら)として、争うことになり、鎌倉幕府の滅亡の遠因にもなります。

 持明院統と大覚寺統の争いは知っていましたが、その持明院統と大覚寺統の祖先の異母兄が鎌倉幕府第六代将軍(皇族将軍)の宗尊親王とはしりませんでした。

第七代 惟康親王

 六代目の宗尊親王の息子。

 皇族将軍ながら、惟康親王は征夷大将軍に就任した後は、皇族将軍ではなく、臣籍降下のうえ、源惟康と名乗る。

 ちょうど、元寇の時期であり、北条氏の中でも、知名度では、北条政子と一二を争う北条時宗の時代。国難の時代らしく、源頼朝になぞらえて、源氏将軍を北条時宗が希望。

 そういえばNHKの大河ドラマの北条時宗で、惟康親王は誰が演じたのだろうと調べてみると「小坂風真」という方が子供時代を演じていたようです。

 大河ドラマの北条時宗のウィキを調べると、お笑い芸人の宮迫さんが出ていたり、名誉小早川隆景である俳優の浅利陽介さんがなにげに北条時宗の少年時代を演じていたりと、今から見るとかなり面白そう。もう一回みてみようかな。

 渡部篤郎が北条時宗のお兄さん(ライバル的存在だった気がする)ながら、マフラーをしていたのが、印象的でした。

 ちなみにあまりフィーチャーされない鎌倉時代の将軍ながら、第四代将軍の北条頼経を宇梶剛士さんが演じ、宗尊親王を吹越満さんが演じており、なにげに面白そう。

 あまりよく覚えていませんが、吹越満のニヤニヤした顔は記憶に残っていたかも。

 少し話がそれましたが、惟康親王は北条時宗の死後、御内人・内管領の平頼綱の意向等により、皇族復帰させられ、そのまま京都に送り返されたようです。やはり皇族将軍は成人すると、京都に送り返されるのは、鉄板・・・。

 どんどん将軍の扱いが「雑」になっていく鎌倉幕府・・・。

かめ(夫)
かめ(夫)

 もはや将軍の事跡だけでは筆が進まない状況。

第八代 久明親王

 七代目の惟康親王がほぼ追放みたいな形で京都に送り返された後の将軍。

 鎌倉幕府の権力基盤も、有力御家人に気を付けなら一族間でも微妙な力関係のあった北条家の執権政治から、得宗専制へと移行し、お飾りの将軍職もさらにお飾りに。

 「お飾り」も「お飾り」という役割がありますが、この時代の将軍はもはやお飾りという役目も既になさそうなイメージ。

 久明親王は、その結果、鎌倉で和歌を詠んで過ごしたようです。

 成年というか30代になると、またご多分に漏れず、京都に送還されます。そして次の将軍が鎌倉幕府最後の将軍となります。

 徳川幕府の最後の将軍や室町幕府の最後の将軍は、よく耳にしますが、鎌倉幕府の最後の将軍は全く聞いたことが今までありませんでした。どんな将軍なのだろう。

第九代 最後の鎌倉将軍 守邦親王

 第八代の久明親王の子供。鎌倉時代最後の将軍にて、なんと将軍在位期間が鎌倉時代最長の将軍。

 今までの将軍たちが成人する前に京都に送還されていたにもかかわらず、守邦親王は京都にいくこともなく、鎌倉に留まり続けた。

かめ(夫)
かめ(夫)

 これは政治力を発揮した将軍やで~、今までの将軍とは全然違うはず!(白目)

 そんなこともなく、政治の実権が完全に北条氏に移っており、もはや飾り物としての意味も残っておらず、ただいるだけの状態。

 後醍醐天皇の倒幕としても北条高時となっており、名目上のトップとしてのお飾りにすらなっていない状況。

 鎌倉幕府滅亡後は、将軍職を辞して出家、3か月後に死亡と伝えられているのみ・・・。

(参考)

足利九代目将軍:足利義尚

 八代将軍の足利義政の子供。応仁の乱のきっかけの一つとして第九代将軍を子供の生まれない足利義政の弟の足利義視とする予定だったのが、義尚が誕生したこと。

徳川九代目将軍:徳川家重 

 八代将軍徳川吉宗の長男。言語やコミュニケーションに関して障碍があったとされる。田沼意次を重用。 

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