平成の末期、ある大企業での一大プロジェクトが開催された。それはまさに、現代のノモンハン・インパール作戦の再来だった。
今の会社組織は、旧日本軍の体質と同じ?
出世街道から完全に外れる前、一時期、社内の一大プロジェクトの末席に参加したことがありました。鬱病のきっかけとなった時限立法の特定課題対応部署とは別の話です。
↓私が鬱病になった話はこちら
そのプロジェクトはトップの関心は極めて高く、複数の役員・複数の部署が関与するというヤマタノオロチのようなプロジェクトになりました。
中心となる部署は当然設置されました。中心となる部署の態度が横柄であると関係部からはあまり協力を得られず。一方、中心となる部署は、関係部は長期的な展望が理解できていない、非協力的だというしまつ。
さらに関係部からはそれぞれの立場から、色々な注文が付けられ、中心部署はある程度、さばいていたものの、関係部の後ろにいる担当役員の面子等も立てるため、どんどん絵だけは大きくなっていくが、実務においては、ヒト・モノ・カネが集まらない状態へ。
どんどんプロジェクトが遅延しても、役員会の資料ばかりは綺麗に整えられ、どの役員も責任を取ろうとせず、部長・上級副部長クラスも表立った形では責任を取られず、次長・課長・担当者で有力役員とコネ(一緒の部で働いていた等)がないものがどんどん責任を取らされていく状況。
そんな状況を見て、ある先輩が「現代のノモンハン事件・インパール作戦」だなと言っていたのが印象的でした。
ノモンハン事件・インパール作戦とは
ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民軍(英語版)の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。
インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に[3]帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。当作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ[4]当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。兵站を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫したため、「無謀な作戦」の代名詞として、しばしば引用される。
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どういうところが似ているの?
このある先輩の「現代のノモンハン事件・インパール作戦」との発言が気になり、その後、「失敗の本質」等を読み漁りました。それがきっかけで、2週間に1冊を心がけている私が図書館で借りる本は、どちらかといえば戦争関係の本が多くなりました。
2週間に1冊の読書は最初は出世街道に載っており、イケイケだったので、意識高い感じで始めましたが、出世街道から脱落した今も、惰性ではありますが、続けています。一気に読むわけでなく、余裕のある際にチョコチョコ読みなので、内容も結構忘れたりして、意味あるのかなと少し悩み中。
昔は、課長はこうあるべき、後輩を延ばす指導といった本を読んでいましたが、今の私には全く不要なため、第二次世界大戦の本等を中心に読んでいます。
課長はこうあるべき論、後輩指導の本を読んでいたの!?
似ていると感じた点
- 最終責任者が不明確
- 中心部署は横暴
- 明確な指揮命令系統がないため要請・要望しかできない
- 上級者は処罰されないが、実務者は処罰される
- 上級者同士の緊密な人間関係・人間模様で組織が動く
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