JTC(伝統的大企業)という組織に身を置いていると、同期や後輩が自分をスピーディーに追い抜いていく光景には、嫌というほど遭遇します。
しかし、先日、なにげなく見た社内報。そこに掲載されていた「ある人物」の自信に満ちた笑顔は、私の心に、これまで経験したことのない鋭い痛みを突き刺しました。
そこにいたのは、高校時代の同級生でした。 同じ学び舎で過ごし、かつては同じスタートラインに立っていたはずの彼が、今や組織の中枢で「未来」を語っていたのです。
眩しすぎる「経営計画」の旗振り役
社内報の特集記事では、「経営計画」の策定実務者(課長クラス)として、彼がインタビューに答えていました。
記事の中で彼は、「グローバル競争力の強化」や「DXによる構造改革」、そして「人的資本経営の推進」のような、JTCらしい壮大なビジョンを熱っぽく語っています。 「全社員が一丸となる」等
彼が紡ぐ美しく力強い言葉の数々。しかし、その「全社員」や「我々」という言葉の中に、うつ病を経て万年係長となり、日陰の事務作業に追われる今の私は、もう含まれていないのだという現実を突きつけられました。
なぜ「同級生の出世」はこれほど痛むのか
同期が出世する姿は何度も見てきましたが、高校時代の同級生の活躍がこれほどまでにダメージを与えるのは、一体なぜなのでしょうか。
それは、大学受験という「共通のモノサシ」で競い合った記憶が、心のどこかに残っているからかもしれません。
同じ時代背景、同じ教育環境から出発したはずなのに、20年数年という歳月が、一方は「組織の変革を担うリーダー」、一方は「出世街道から外れた観察者」という、あまりに残酷な格差を生み出してしまいました。
【相性転職Personal File】「組織の物語」から降りるという選択
仕事中、こみ上げるルサンチマン(嫉妬や怨念)を必死で抑えながら、私は思いました。「もう、会社が用意した物語の主役を目指すのはやめよう」と。
彼が語る「経営計画」は確かに立派です。しかし、それは「会社の人生」であって、「私の人生」ではないのだと自分自身に言い聞かせるしかすべはありませんでした。
まとめ:人生は、やっぱり「誤差の範囲」だ
社内報で笑顔を見せる彼と、窓際のデスクで淡々と事務をこなす私。その差は、組織の力学で見れば天と地ほどの開きがあります。
しかし、20年後に仕事を退いたとき、あるいは人生の最期を迎えたとき。あの日の社内報でインタビューに答えた彼と、それを読んで少しだけ泣きそうになった私。その違いもまた、長い人生という航路から見れば、すべては「誤差の範囲」に過ぎないと言い聞かせよう。
私は、彼のように「次世代のビジョン」を語ることはできないかもしれない。けれど、失敗さえも資産に変え、しぶとく、自分らしく生き抜く力は持っていると信じています。
明日もまた、組織の片隅で、私だけの「生存戦略」を書き続けていきます。

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