日本人はなぜ戦争へと向かったのか

40代夫婦の体験談

第3回「熱狂はこうして作られた」

 第三回は戦争に勝っている当初の半年程度の間に、今後の方針が定められないままずるずる戦線を拡大し、また当初目的としていた占領地の資源の開発・本土への輸送等もうまくいかなかったといった内容。

 その中で気になったのは、1942年の2月以降における勝ち戦(攻勢)後の対応にかかる陸海軍の方針のすり合わせがとても印象的でした。
 
 主だった戦略拠点資源を確保したことから、攻勢限界点を考え、守り重視の陸軍と、米国と日本の今後の生産量(トンベース)の大幅な乖離見込みを踏まえ、現時点で米国艦隊に打撃を与えておきたい(つまりさらに積極攻勢)海軍。

 立場は正反対ながら、シンガポール・バレンバンの陥落も終わり、今後の方針をきめなければならない局面へ。

具体的には「第一回戦争遂行指導大綱」の文面検討の流れが、正直、1942年の陸海軍というよりも平成の今の企業、特にグループ会社や子会社の多い大企業の経営計画なりの策定する部署(企画部あたりでしょうか)でも程度の差はあれ見られる光景な気がしました。

 まずは海軍、陸軍の課長クラスが文言調整。まさしく官僚組織。
①積極攻勢案の海軍の案は以下の通り
 『既得の戦果を拡張し、英米の屈服を図る」との案。
②守りに入りたい陸軍の案は以下のとおり
 『既得の戦果を確保し、長期不敗体制を構築する」

途中、文言の並び替え、~しつつといった議論があったなか、結果として実質的には両論併記の以下の文面へ
 『既得の戦果を拡充し、長期不敗体制を整えつつ、機を見て積極的方策を講ず」

 若干、海軍よりの積極策よりな気もしますが、長期不敗体制という長期の文言や積極的方策は、機を見てとの条件付きといった陸海軍の主張をうまく取り入れた、『官僚』としては素晴らしい作文にできあがりました。

 このような課長クラスの調整を経て、最終会議となる「大本営政府連絡会議」においても、東条首相は、「意味が通らない」等の意見もいいながらも、結局、下から上がってきた文面を大きく変えない従来の官僚組織の慣習にのっとり、承認。

 このような意思決定の流れは、本当に戦前の陸海軍だけの問題なのでしょうか。。
今の大企業の企画部署等では大なり小なりこのような議論が行われている気がしてなりません。

第4回:リーダーたちの迷走

旧日本軍というか戦前の戦争を語る際に、「軍部独裁」等のワードが語られますが、ドイツやソ連と違い、明確な独裁者はいなかったため、無理やりつけられた感があります。

 東条英機を独裁者と無理くり設定しているものもたまに見ますが、よく言えば優秀な軍官僚、悪く言えば(石原莞爾に倣うと)上等兵(小役人)であり、官僚として優秀だった逸話、小役人的な逸話(敵対した新聞記者を前線へ等)はありますが、やはり独裁者とは言えないと思います。

 開戦前夜、色々な選択肢があるにも関わらず、国内の各組織同士の見栄やお互いの嫌な気遣い、バランスを優先した結果、南部仏印⇒米国による全面石油禁輸⇒ハルノートと自ら選択肢をどんどん狭めていき、最終的に「えいや」といった形で真珠湾攻撃へ。

 当時の内閣制度(軍務大臣現役武官制)や、軍内部の事情(陸海軍省等の軍政機関が、参謀本部や軍令部といった軍令機関(特に陸軍参謀本部)と対等であり、作戦が優先される)もあったとはいえ、近衛首相は陸海軍大臣に対して強く出れず、陸海軍大臣も参謀本部等に対して強くでれない状況。

 最終的には、近衛首相や陸海軍大臣、陸軍省軍務課長どころか、(独断専行といわれた)最前線の品派遣軍司令官までが、「対米戦は無理だ、ひきかえすしかない」との思いがある中、誰も自らの組織の立場等もあり、「対米戦は無理だ」とは言い出せず、ずるずると状況は先送り。

 そうしている中、比較的日本に融和的だった国務長官のハルは米国政府内での立場が悪くなっていき(日本に融和政策をとればとるほど、日本は南部仏印進駐等を行うため)、結果として、最後通牒となった「ハルノート」となり、日本の首脳陣は、結局自ら積極的に判断することなく、対米戦を決定。

 誰もがわかっているけど、自らの組織の痛みだけでなく、国民から反発を買う(その当時だと暗殺やテロもありえる)のを恐れ、「対米戦は無理」といいだせない状況。

 今の日本社会でもそのようなことってあり得ると思います。例えば『高齢化問題』。高齢化問題は、むしろ対米戦と異なり、明らかに結果がわかっているかつ、時間軸は十分にあったにも関わらず、誰も対応を打たず、その場限りの先送り。

 高齢化問題については、「給付を減らすか」、「負担を増やす」もしくは「移民を受け入れる」か「高齢者への社会保障を若年層などへ一気に明確に動かす」程度しか対応は思い浮かびませんが、歴代どの内閣も小手先の対応しかしてこなかった気がします。

 マスコミも読者層のことを踏まえ、他人事的な個別施策の批判はしても、総合的な対応提言、批判はしてこなかった気がします。

 まさしく神風なり天祐で出生率があがるだろうといった希望にすがってきたのかもしれません。歴史から学べとよく聞きますが、どんだけ表面上変わっても、今の日本社会は、戦前からあまり変わっていないのかもしれません(そういえば55年体制よりも最近は1940年体制というようですね・・)

 組織のバランス、お互いの面子等をたてあう日本型の昭和型の組織論は、昔の話、旧日本軍の話、戦前の話といって今とは関係ないとは言えないと思います。

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